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江戸時代、江戸では50本(台)以上もの山車が出た山王まつりや神田祭など山車が中心の祭りであった。しかし、これらの山車は、地方へ譲渡され残っているものもあるが、ほとんどは関東大震災で焼失したり(注1)、破棄されたりして、現在、東京に残っているものは皆無といえ、東京は神輿が中心の祭りになってしまっている。
しかし、幸いにも、当時の祭りの様子や山車の形は、当時、版行された多くの番附や錦絵に描かれており当時の姿を偲ぶことができる。もっとも、番附は、神幸行列に出る山車や附祭のプログラム的(予定表)なもので、その年の番附を作るにあたっては、前年に出たものや各町内などからの情報をもとに描かれたものであり、実際に出るものとの間に違いがあるなど、役所が番附に目を光らせていたともされている。しかし、多少の違いはあったとしても、現在では当時を偲ぶ唯一ともいえる貴重な資料である。
錦絵は、番附に比べると数は少ないが、彩色され、細部まで描かれている。しかし、多分にデフォルメされたり、いつの祭禮をいつ描いたかなど不明のものが多かったり、中には、山王まつりと神田祭の山車が一枚の中に描かれたものもあるなど実証性は番附に劣るといえる。
これらの番附・錦絵は、主に公共施設である国会図書館などの図書館や国立歴史民俗博物館などの博物館、また、神社などに保管され、現物やコピーを見たり、コピーを得ることができるものが多い。また、それ以上に個人(収集家など)の所有も多いと思われるが、市場での売買は少なく、売り物が出ても価格も高い。また、持っている人の情報も少なく、見せていただける機会はほとんどない。
国会図書館など公共施設の番附は、たとえば、赤坂氷川神社のそれは、東大史料編纂所DBに多く所有されているが、他に所有しているところはないなど意外と重複所有が少ない。
これら公共施設でも、番附・錦絵を調べやすいのは、民間人にも開放的な図書館で、コピーも10〜150円/枚で可能なところが多い。しかし、博物館は、職業研究者には開放的であるが、民間人は閲覧もできず、コピーが取れても、高額を要求される施設もあり、30丁もある冊子の番附だとコピーでも10万円にもなってしまう場合もある。博物館にも貴重な資料が多くあり、民間人にももっと開放していただければありがたいのだが!!
この頁では、これらの番附や錦絵などをしらべ、「祭禮番附」「番附の山車の形」「番附の山車人形」「番附の版元」の4編にまとめた。全編同時公開を目指したが、全編を完成するにはかなりの時間を必要とするため、各編が完成次第、随時公開したい。
なお、内容は、多分に独断と偏見や検討不足が多く、間違いのご指摘やご意見をいただければ幸いである。
注1)江戸・東京から山車が消えた原因の一つに、明治初期に始まった電線の架設があるとする説があり、それも一つの要因であろう。しかし、電線が張り巡らされ、電車が走る市街地を山車が巡行する江戸魚河岸「御大典奉祝」行事の写真や大正初期の東京大正博覧会・江戸記念博覧会などに多くの山車が出た記録がある。しかし、大正12年の関東大震災後には多くの山車が出た資料がないことから、関東大震災で多くの山車が失われたのが東京から山車が消えた大きな要因ではないかと思われる。
注2)現在、東京には当時の山車はほとんどないが、赤坂氷川神社の山車庫に保管されていた江戸時代に13台あったとされる赤坂山車の内の9台分の部品と5体の人形を使って、2台の山車が2007と2008年に復元された。貴重な資料である。 |
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江戸時代の庶民が称した天下祭は、江戸天下祭ともいい、山王権現(現山王神社)と神田明神(現神田神社)の2つの祭りをいう。江戸には他にも多くの神社の祭りがあるが、天下祭は、江戸を代表する祭りであり、徳川幕府公認の祭りとして神幸行列が城内へも巡行し将軍などの上覧を受けた。このことから天下祭と呼ばれるようになった。
いつ頃から天下祭と呼ばれ始めたか、また、いつ頃呼ばれなくなったかについての文献は見あたらないが、「祭りだ!屋台だ!」では幕府がかかわった祭りとして、上覧が行われていた期間を天下祭とした。
すなわち、山王権現の祭りが上覧を受けた寛永12年(1635)が最初で、最後は同じく山王権現が上覧を受けた文化元年(1804)の170年間である。始めて城内へ入ったのは元和元年(1615)との説もあるが、そのことが記載されている「事蹟合考」の発刊が130年も経った延享3年(1746)であり、また、その後20年間入った記録がないことから、ここでは、寛永12年を最初とした。
この170年間、毎年上覧が行われたわけでなく、山王権現が71回、神田明神が3回、根津権現が1回の計75回、平均2.3年毎であった。
山王権現の祭りの上覧が多いのは、山王権現が徳川将軍家の産土神(家光が定めた)として篤い祟敬を受け手厚く保護されていたことにより、ほとんど隔年に上覧が行われている。祭りには巨額の費用がかかり、幕府も費用を出していたこともあり、天和元年(1681)に幕府の命により山王権現と神田明神の両祭りを隔年に行うようになった。しかし、それ以前から山王権現の上覧は、ほぼ隔年で行われており、幕命との関連ははっきりしない。
番附によれば、天下祭の頃の江戸の祭りは、前述したように今の東京の神輿が中心の祭りと違い、両祭りだけでなく一般に山車中心の祭りであった。当時の神輿は、神社の宮神輿(本社神輿)の1基か多くても3基であったが、山車は最盛期には50本(台)以上もでた祭りもあった。現在のように、100基以上もの町神輿が出るようになったのは、山車がいなくなってからである。
番附が残っているのは主に天下祭といわれた山王まつりと神田祭のものであるが、赤坂氷川神社祭禮のものもかなり多く20年分が残る。その他、赤城大明神祭禮・青山熊野大権現・四谷牛頭天皇祭禮・小石川明神祭禮・小石川白山祭禮・亀戸天満宮祭禮・深川八幡宮祭禮・三社権現祭禮・麻布氷川神社祭禮のものもあるが、せいぜい1〜2年分である。
天下祭であった山王まつりと神田祭の番附が多いのはわかるが、現在、多くの神輿が出て賑わう三社祭や深川八幡まつりなどのものは1〜3年分しかなく、また、一度だけではあったが天下祭として50本以上もの山車が江戸城へ入ったとされる根津大権現祭禮の番附はなく、江戸城へ入った正徳4年(1714)の姿を描いた神前額面(焼失)を天保11年(1840)に版画にしたものが残るだけである。
また、山王まつり・神田祭・赤坂氷川神社祭禮を除く他の祭りの番附は、山王まつりなどを含む番附が版行され始めた初期の寛政4年(1792)〜天保3年(1832)に版行されただけで、その後のものは見あたらない。これは、これらの祭りの番附は、売れ行きが悪く、採算が取れなかったためではないだろうか。
調べた資料は、番附が約100点で、1〜4枚ものと冊子があるが、その版行割合は、1〜4枚ものが77%、冊子が23%である。錦絵などのその他資料は、約40点である。これらを「付表1:番附・祭禮資料一覧」にまとめ、下の「表1:番附・祭禮資料年表」に、1〜4枚ものを赤色丸
、冊子は茶色丸 、錦絵などのその他資料は青色丸 で示した。
この表からわかるように、番附が最初に版行されたのは寛政4年(1792)で、天下祭が始まった寛永12年(1635)から160年も後のことである。また、上覧が最後に行われたのは文化元年(1804)までであり、天下祭が行われた間に番附が版行されたのは、僅か12年間である。しかし、番附は、上覧が終わっても、約60年後の幕末〜明治初期まで盛んに版行されている。これは、上覧はなくなったが神幸行列は江戸城内へ入っていたとする説もあり、上覧はなくても祭禮は盛んに行われたことを意味する。
番附の版行の初期は、1〜4枚ものであったが、約20年後の文化9年(1812)に山王まつりの冊子が初めて版行され、次の年には神田祭のものが版行された。それ以降はほぼ毎年両形態の番附が版行されている。しかし、この冊子の番附は、山王まつりと神田祭に限られ、赤坂氷川神社を含め他の祭禮では版行されていない。これは、当時の祭禮の人気を現しているのだろう。
複数の版元が同じ年に出す例もあり、年に7点も版行されたとする説もあるが、確認した範囲では多くて3版元からの3点であった。
番附の大きさを実物で測定した。1〜4枚ものを測定した十数点は、すり切れたり破れたものを後世に巻物などに表装したもので、台紙を除く本紙部分の寸法は、1枚もの(1点)は、縦36.5×横48.8cm、2〜4枚ものは、縦23.5〜27.2cm(平均24.8cm)×横27〜42.4cm(平均32.9cm)であった。
冊子は、横長のものを横で綴じた横帳と縦長のものを横で綴じた縦帳があるが、縦帳は少なく、ほとんどが横帳である。横帳(2点)は、縦7.6×横11.0cm、縦9.5×横14.6cm、縦帳(1点)は、縦11.0×7.6cmであった。冊子は、後世に表装するなど手を加えていない和綴じのままである。
全般に寸法にバラツキが大きいのは、現在のようにA4・B4などの規格がない時代のことであり、和紙の銘柄の違いによる寸法の違いや裁断寸法の違いなどによりいろいろな大きさのものが出回っていたと思われる。
番附は幾らで売られていたのか?幸い、番附1点に売価が書かれていた。18丁冊子、天保十三寅年六月十五日(1842)、版元:森屋治兵衛梓、山王御祭禮附祭番附に
「定價 八十銅」 とある。
江戸時代は、金貨、銀貨、銅貨の三貨制度で、それぞれ次の通りであった。
金貨は、「計数貨幣」で、小判1枚を1両とし、1両は4分(ぶ)、1分は4朱の4進法とした。
1両=4分=16朱
銀貨は、重さが貨幣の価値となる「秤量貨幣」で、基本単位は「匁」、1匁は10分(ふん)、1000匁を1貫(かん)とした。
1匁=10分、1貫=1000匁=10000分
銭(せん、銅)は、1個が1文(もん」で、100文を1貫文(かんもん)とした。
銭100分=1貫文
このように金・銀・銭(銅)は、それぞれが別の貨幣体系をもち、単位の名称も異なり、貨幣の交換レートはオフィシャルレートもあったが、相場できまっていた。オフィシャルレートは、元禄年間(1688〜1704)は、金貨1両=銀貨60匁=銭貨4000文であった。天保13年(1842)以降は、1両=銀貨60匁=銭貨6500文になった。
一方、江戸時代(慶長8年・1603〜慶応3年・1867)と現在の貨幣価値の換算は、大変難しいとされているが、「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の試算によれば、江戸時代中期の1両(元文小判)を、米価・賃金(大工の手間賃)・そば代金をもとに比較すると、米価では、1両=約4万円、賃金では、1両=30〜40万円、そば代金では、1両=12〜13万円になるという。
また、各期により違いがあり、米価で、初期が金1両=約10万円、中〜後期で3〜5万円、幕末頃は3〜4千円としている。
これらから、八十銅を現在の貨幣価値に換算する。
冊子の版行年である天保十三年(1842)は、江戸後期で、また、オフィシャルレートが変わった年にあたることから、次の条件で換算する。
八十銅(銭)=八十分(もん)。
金貨1両=銀貨60匁=銭貨4000文〜6500文 のオフィシャルレートの2通りで換算する。
米価の換算は後期であるから1両=3.5万円(3〜4万円) とする。
80文×35000円(1両)/4000文〜6500文=700円〜430円
今、冊子を版画で作ったら幾らになるか? 現在は版画で千社札などを作ってくれる人が減り、価格が上昇しているというともいうもあり、幾らになるかわからない。しかし、版画ではないが雑誌などをベースに考えて、また、現在の懐具合からすれば、意外とリーズナブルな価格といえるのではないだろうか。
その他資料には、錦絵・巡行行列図・年番順番・絵巻・出し尽くし・絵馬・納札・祭禮番附併附祭藝人練子名前帳・御用留・双六などがあるが、ここでは、番附を中心に取り上げ、その他資料は参考的に扱った。 |
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番附の内容は、1〜4枚もの・冊子ともに、神幸行列や附祭・山車を描くが、1〜4枚ものは、神幸行列と附祭を詳しく描き、山車は山車人形だけを上部に小さく描いたものが多い。一方、冊子は、20〜30丁に神幸行列や山車・附祭を番順に描き、また、巻末には附祭の芸人の役柄・名前や浄瑠璃文句などを6〜7丁にわたり描いている。
番附の具体例を見てみる。資料はいずれも50年以上経過したものばかりであり著作権の問題はないが、資料の公開に当たっては所有元の許可の手続きなど煩雑であるため、版元や絵師の意図と異なることもあるが、稚拙な作画にもとづくことにした。
下記に12例を年代順に示す。
江戸時代の木版による多色擦りの印刷技術(版画)は、世界水準を抜いた最高のものであったとされる。しかし、双紙や浮世絵などの多色擦りは、贅沢だとして禁止されていたことから、当時の番附は、基本的にはモノクロである。中に2色の濃淡などで摺り分けたものや、冊子の表紙のみ極彩色で摺ってものがある程度である。
しかし、作画したものは見やすいように極彩色したものもある。
1〜4枚もののほとんどは、祭禮名と祭禮年月は1枚目の右上部に、版元は1枚目の右下か最後の頁の左下の枠内、あるいは、枠外に書かれている。絵師や彫り手は、一般に、1〜4枚ものには書いていない。
山車は、人形だけを描くものが多く、せいぜい、囃子座までであり、車輪や牛など下部は例外なく引き手などで隠されている。
初期は、複数年で同一の板を使ったり、頁の一部を変えて使うケースもある。また、驚くことに、版元が同じで、一番・二番の山車が同じではあるが、山王まつり(寛政4年、日吉山王御祭禮番附)と神田祭(神田祭大明神御祭禮番附)に同じ絵を使っている番附もある。
冊子は、1〜4枚ものに比べると神幸行列・すべての附祭・すべての山車を詳細に描き込んでいる。それでも、山車はせいぜい囃子座までで、それ以下は隠す意図ではないかもわからないが、曳き牛や車輪を描いたものは番附には皆無である。
祭禮名と祭禮年月は多色摺りされた表紙に書かれ、版元はほとんど最後の頁に書かれている。また、絵師を書く例もある。
以下に、12例それぞれについて特徴などを見てみる。 |
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「日吉山王御祭禮番附」 寛政四年(1792)、原版版元:水谷町岩井屋 2枚もの。
確認した番附のなかで最も古いもので、全体を横三段に分け、最上欄に一番から四十六番までの番順を、その下の欄に町名(丁名)と山車人形名や附祭の出し物名、下欄に山車や出し物の絵を描いている。しかし、絵は山車は四十六番すべては描かず、諫鼓の山車と猿の山車のみ、他は神幸行列の真榊、3台の屋台、附祭の一部を描く簡素なものである。山車は人形部分と吹貫だけを描き、下部は描いていない。山車の全体を推定することは難しい。
このような番附は、一番多い構図である。 |
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「氷川大明神御祭禮 榊 獅子」 享和三年(1803)、原版版元:享和三年(1803)・文化六年(1809)・本屋繁蔵、文化八年・八丁堀七軒町本屋富五郎 2枚もの。
文化六年(1809、本屋繁蔵)の1枚目は、享和三年の1枚目と同じものを使う。文化八年(1811、本屋富五郎)の1枚目は、享和三年の一部だけを変更している。
山車は、すべて万灯で、下部は描いてないが、万灯から上を全台数描く。他は、神輿と附祭の一部を描く。(絵は、3年分の組み合わせで描いた) |
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「神田大明神御祭礼」 文化2年(1805)、原版版元:八丁堀北島町吉兵衛 2枚もの。
享和3年(1803)の番附も、附祭(附ま津里)の演題と山車の説明を書いた三段目の文言が違うだけ)で、絵は全く同じ。 初期には、他の番附でもこのように一部のみを変えたものは多いが、時代が下ると年ごとに同じ出し物でも彫りなおしたものになっている。
番附は全体を横四段に分け、最上部に一番から三十六番までの番順を、その下に町名を独立した欄を設け、三段目に山車名を描く。最下段に山車や附祭を描く。神幸祭は真榊・神輿1基・馬に乗った神職を描く。
山車は、三十六番全部を描くが、万灯より上部のみで、下部はおちゃびんや神幸行列の人たちなどに隠れ一切描かれていない。このように2枚ものですべての山車を描いたものは、初期と後期のものだけで、中間期のほとんどは山車は人形だけを上部欄に小さく描くだけで、最下段には神幸祭・附祭だけを描く。
山車は、すべて万灯で、下部は描いていないが、万灯から上を全台数描く。 |
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「日吉 山王御祭礼番附」 文化五年(1808)、原版版元:ばくろ町木村しげ蔵ちそう橋火の見よこ丁京屋宗兵衛 2枚もの。
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| 「山王御祭禮番附」 文化十三年(1816)、原版版元:馬喰町二丁目森屋治兵衛 2枚もの。 |
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| 「氷川大明神御祭禮」 文化十4年(1817)、原版版元:八丁堀七軒丁近江屋虎吉 2枚もの。 |
江戸時代中期、多色擦りは、贅沢だとして禁止されていたことから、番附は基本的にはモノクロである。中に2色の濃淡などで摺り分けたものや、冊子の表紙のみ極彩色で摺ってものがある程度である。
しかし、ここでは見やすいように彩色した。(以下同じ) |
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| 「神田明神御祭禮番附」 天保二年(1831)、原版版元:江戸馬喰町森屋治兵衛 横帳19丁。 |
| 原本は、表紙(右絵)のみ彩色されている。 |
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| 「神田明神御祭禮番附」 天保二年(1831)、原版版元:江戸馬喰町森屋治兵衛 縦帳19丁。 |
| 原本は、表紙(上最右絵)のみ彩色されている。 |
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| 「神田大明神御祭禮附祭番附」 弘化二年(1845)、原版版元:馬喰町二丁目森屋治カ兵衛 3枚もの。 |
| 原本はモノクロであるが見やすいように彩色した。 |
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| 「神田御祭禮番附」 安政二卯年(1855)、原版版元:志□屋□□板 3枚もの。1〜3枚ものとしては、4段に神幸祭・附祭・全山車を描いた番附である。このような番附は少ない。 |
| 原本はモノクロであるが見やすいように彩色した。 |
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| 「神田大明神御祭禮附祭番附」 明治十三年(1880)、原版版元:京ばし区浜田吉五郎 2枚もの。 |
| 原本はモノクロであるが見やすいように彩色した。 |
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