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竹田 近江・竹田 縫之助 |
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初代は、生没年不詳。名は清房。四国安房の出身で、江戸で子供の砂遊びを見て砂時計を作った。御所へからくり人形を献上し、万治元年(1658)に出雲掾を貰い、翌年近江掾を貰い竹田近江と名乗る。
「摂陽見聞筆拍子」などの古書に時計やからくりなどの作品の記述がある。
寛文2年(1662)に大阪で竹田からくり芝居を創業し、大人気を得て、2代目清孝の元禄時代()には大芝居なみの格式を持ったが、3代目清英、4代目清一となるうちに人気は落ち、文政5年(1822)頃から竹田継之助と改名した。
明治時代に11代竹田継殿之助が浅草で興行したのを最後に230年続いた竹田からくり座は終わった。
屋台のからくり人形の作品は、2代目の名古屋東照宮京町古鍛冶車のからくり人形などがあった。
からくり人形ではないが、潮来祇園祭禮の素盞雄の山車人形が竹田 縫之助とされる。 |
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| 人形名 |
素盞雄尊 |
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鞍馬の牛若丸 麾振り人形(前人形) |
| 祭 名 |
潮来祇園祭禮 |
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尾張西枇杷島まつり |
| 屋台名 |
七丁目 |
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東六軒町:泰亨車 |
| 備 考 |
明治33年 竹田 縫之助作 |
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前人形の他は、天保〜嘉永年間(1830〜1853)の凄雲斉信也作。麾振り人形は、弘化4年(1847)の凌雲斉信也作とされるが、麾振り人形・木葉天狗(文政7年1824)・僧正坊(天保15年1844)は箕浦
信也作とする資料もある。 |
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山本飛騨掾 |
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南部 秀水
3代目南部白雲 |
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京都のからくり人形師で、竹田近江に拮抗する力を持ち、水を使ったからくりが得意であったことが「棠大門屋敷」などに紹介されている。
屋台のからくり人形の作品は、名古屋東照宮林和靖車のからくり人形などがあった。 |
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昭和26年富山県井波町で木彫刻師の家に生まれ、継ぐ。
木彫りを生かしたからくり人形を作る。
屋台のからくり人形の実績はない。 |
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茨城県筑波郡谷田部の名主で、発明や理数に長け、「からくり伊加七」といわれた。「谷田部郷土史」に木製大時計・そろばん・測量機器・からくり人形なを作ったと記されている。つくば市谷田部郷土館に木製大時計などの作品が残る。 |
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鬼頭 二三(じさん・ふみ) |
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荒川 宗太郎 |
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幻の人形師ともいわれ、からくり人形の名人ともいわれる。
はんだ山車まつり:亀崎:青龍車の唐子遊びは、天保12年鬼頭作とされるが年代的に疑問があるという。
また、西枇杷島町東六軒町の麾振り人形は、文化9年(1812)の3代目玉屋庄兵衛作とされているが、胴部に「寛政8年 行年82才 鬼頭二三造之」墨書きがあるという。 |
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明治17年(1884)〜昭和25年。一宮市で飾馬具製作縫宗(刺繍)業の浅井宗七の次男として誕生し、名古屋の荒川家へ入った。6代目玉屋庄兵衛で働き、後に独立した。
作品は、はんだ山車まつり:亀崎:宮本車の昭和7年作「湯取り神事」がある。 |
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享和2年(1802)〜明治3年(1870)、京都の羽子板細工師の子として生まれた。名は薫、通称義時。結婚して中村弁吉とし、金沢市郊外の大野村に移り住み、通称大野弁吉と呼ばれた。豪商・銭屋五兵衛と親交があった。
長崎で医術・理化学など洋学を学び、その後も馬術・砲術・算数なども学んだ多才であった。
金沢では三番叟・盃運びなどのからくり人形を作った。
金沢・大野町の「からくり記念館」「粟森家資料館」にからくり人形などが展示されている。
名古屋広井神明社唐子車に天保12年(1841)の作品が載る。 |
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佐藤 金平 |
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矢場町 甚四郎 |
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犬山城の城番(城郭守衛のために置く兵士)。
作品は、犬山祭:遊漁神・枝町「恵比寿の鯛釣り」がある。 |
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作品は、犬山祭:国香欄に寛保2年(1742)に「文殊菩薩」を作る。
現在は、雲斉信也作「石橋獅子」が載る。 |
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作品は、犬山祭:国香欄の寛保2年(1742)作「:石橋獅子」がある。 |
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細川 半蔵 頼直
細川 頼直 半蔵 |
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尾陽木偶師 (びようでくし) |
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土佐国長岡郡西野地村の郷士に生まれた。号は、万象・丘陵。子供の頃から秀才とされていたが、中年過ぎに天文学を学び、家督を子供に譲り、江戸へ出、寛政7年(1795)幕府の改暦計画に参加した。
江戸からくりの傑作「茶運人形」の設計図と製作方法を「機巧図彙(からくりずい)」に書いた。この図彙を手本に茶運人形を昭和44年に復元した7代目玉屋庄兵衛は、図彙が非常にわかりやすく、正確であるといっている。 |
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竹田近江・吉田平次郎などの京都のからくり人形師により尾張では屋台のからくりが盛んになった。しかし、彼らはいつも京都から出張してくることはできず、いつしか彼らの流れをくむ地元のからくり人形師が育った。彼らを「尾陽木偶師」という。彼らは、「尾陽木偶師」を半纏に染め抜いて誇りとした。
尾陽木偶師として玉屋庄兵衛、鬼頭二三、竹田藤吉、隅田 仁兵衛などがあげられる。 |
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田中 久重 |
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寛政11年(1799)〜明治14年(1881)、九州久留米出身。幼児から発明の才能があり「からくり義右衛門」とも呼ばれた。若い頃は地元の祭りや大阪・江戸などへからくり興業に出かけた。その後、文政7年(1824)に家業を弟に譲り関西でからくり修行をし、御時計師になった。万年時計・亀の盃運び・弓曳き童子のからくり人形は高い評価を得た。幕末には佐賀藩に仕官し、蒸気機関車の模型や蒸気船の建造に携わった。明治8年に東京で今の東芝の基となった田中製作所を設立した。
右絵は、幕末に作った弓曳童子で、矢台に置かれた4本の矢を次々と取り連射する。4回のうち1回は的を外すように作られ、能面効果で作られた顔で、的に当たったときは満足げに、外したときは悔しげな表情に見えるようになっている。
(トヨタ自動車株蔵。2006年に江戸東京博物館で開催された「夢 大からくり展 −田中久重と江戸時代の職人の科学技術−」に出品されたもの。操作は、東野進氏) |
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東野 進 |
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昭和25年大阪生まれ。科学技術史資料研究・修復を専門にしていたが、平成3年に田中久重のからくり人形を発見して修復してから自らもからくり人形を作るようになった。作品は主に座敷からくりで、屋台のからくり人形の実績はない。
水銀を使わない段がえり人形を開発した。
右絵は、文字書き人形 と東野進氏。
日本からくり研究会 オフィシャルサイト
http://www.nippon-karakuri.com/
(2006年に江戸東京博物館で開催された「夢 大からくり展 −田中久重と江戸時代の職人の科学技術−」に出品されたもの。) |
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| Page Last Updated 2008.1.20 |
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