都梁斎・法橋・仲秀英(以下秀英という)は、原舟月に劣らぬ山車人形作りといわれている。それは残っている人形からもうかがえる。しかし、秀英についての記録は少なく、子孫の方もおられるが、その係累などはっきりしないところがある。
 資料としては、「続・江戸型山車のゆくえ」、秀英の曾孫 斎藤道子様の「四〇〇年目の江戸祭禮」への寄稿、古川 長延が語る明治33年5月3・4・5・8日発行・千代田日報・諸道内幕「話の種・人形の話・其一〜四」などあるが少ない。
 そこで、これら少ない資料をもとに各代目の秀英がいつ生まれ死んだか、また、それぞれの人形が何代目の作品かなどを独断と偏見で大胆に推理した。
秀英について「続・江戸型山車のゆくえ」 (以下〔ゆくえ〕という) に記載されている内容。
親の代から深川佐賀町に店を構えた。
記録がなく、2代目(?)作と混同されるが、2代目は初代を越える名人で、川越まつりの山車に載る山王猿・翁・天細女命・三番叟などが現存する。
法橋を明治5年(1872)に名乗るが、翌6年にはこの制度が廃止されたことから、勝手に名乗ったのではないか。
その後、神田鍛冶町に居を移し、一層繁栄したが、2代目は39才で早逝した。
秀英の曾孫 斎藤道子様の「四〇〇年目の江戸祭禮」への寄稿 (以下〔寄稿〕という) から秀英の系図とそれぞれの人たちの経歴などをまとめると次の通りである。(敬称略)
仲 秀英
 (田中惣七)
山車人形・雛人形・節句人形・武者人形・からくり人形も作る。(岩瀬秀が母可ねから聞いた話)
2代目は早逝したので、曾祖父(仲 秀英)は3代目で、文久・明治時代の作品は円熟期の働き盛りの作品と確信。
日本橋十軒店に店を構えていた頃、近くで火事が起き、大切な物を蔵へ運び込んでいたときに事故で死亡。日本橋災害記録史と戸籍謄本から、明治17〜20年(1884〜1887)に40〜50才で没と推定。
岩瀬秀は「おじいさんは、岐阜の出の人だよ」といっていた。
可ねは、仲 秀英を本名の苗字と一緒にして田中秀英と呼んでいた。
秀英の妻 秀英没後その弟と再婚。
86才没。
可ね 秀英の長女。
明治5年(1872)誕生。
明治44年(1911)、岩瀬秀が6才のとき没。
熊次郎 秀英の長男。
明治8年(1875)誕生。
10才頃(数え1884)、父秀英没。
仲 秀英の後を継がず。
才治郎 文久2年(1862)誕生。
14才で上京、秀英の書生となる。
可ねとの結婚を秀英に願うも叶わず、秀英没後約10年で結婚。
その後、約10年後岩瀬秀が誕生。
弟子入りせず、人形作りはしない。
岩瀬秀の姉。
岩瀬秀 明治38年(1905)誕生、2001年に96才で没。
共立女子職業学校(現共立女子大学)で和裁・日本刺繍を学ぶ。
父戦死後、5人の子供を女手で育てる。
昭和19年(1944)に戦死。
古川 長延が 千代田日報・諸道内幕 「話の種・人形の話」 (明治33年5月3・4・5・8日) で語った談話。 (以下〔千代田日報〕という)
山車人形の製作人として斯道の古老といわれる泰精齋古川長延を本郷湯島天神町の宅で山車、および、人形などについての談話を履歴とともに記載した。
私は、高が職人のことで履歴などといわれても困るが、概略いえば、文政9年(1826)誕生で当年75才になる。親は善吉といい琴屋(琴の製作・販売・修理などの店であろうか)であった。
小細工物好きで、
13才で深川佐賀町の都梁齋仲秀英と申す仁へ弟子に入った。都梁齋仲秀英は二代目で人形を上手に拵えていたが惜しいことには39才で亡くなった。
10年の年期を勤め、禮奉公を1年して、師匠の“仲”を貰って仲英真として十軒店へ店を出した。
拵えるものが師匠と同じだということで苦情が出て、折角出した店を止めて尾張町の新地へ引っ越した。しかし、店を出すことはならないといわれ、貰った名前を返し、作名の泰精齋と本名の古川長延で尾張町に店を張り、その後、今の湯島天神町へ移った。師匠・弟子の関係は難しいものだ。
山車人形をおもに作るが、雛人形や五月人形も拵える。人形を作る場合、人形を拵える人が衣装まで着せるのが本当であるが、この節は一人でやる人はおらず、体は体、衣装は衣装で分業で作っている。しかし、衣装には本来の裁ち方があるが、今は手を抜こう抜こうとしており、本式にやるものは滅多にいない。(以上其一)
人形に定まった顔容はなく、作人の腕次第でどうにでもでき、拵える者の上手下手により種々の顔ができる。
節句人形の首や手足は、安くできる型物で木彫りはない。山車人形のそれらは木彫りであるが、山車人形は多くなく、古川 長延のような木彫り専業の者は段々と減っている。木彫り人形の顔・手足の拵え方にチャントしたきまりはなく、作人の腕次第であり、師匠のもとで修行しても自分に了(量)見がなければ取得できない。
神武天皇様とか関羽などは、なにぶん書いたものがあるが、頼義や八幡太郎義家などはきまった顔立ちがないため、自分の了見で考え出すしかなく、苦心がある。(以上其二)
木彫りで作る山車人形の首や手足の材料は、尾州あたりの姫子松を使う。目は玉を入れる玉眼で作る。髪の毛や眉毛は、上物は熊の毛、安物は馬の毛を使い、優しい人物の眉毛は描く。首には作人の名を書いた札を入れるため、うっかりしたものを拵えると末代までの恥になる。(以上其三)
私が作った人形は、佐柄木町・野猪(亥年に因んで作った)、
白壁町・蛭子(親方が途中で亡くなったため、親方の名前で作った)、日暮里・為朝、須田町・関羽(最初のものは親方が作ったが、火事で焼けたため、私が作った)、通新石町・歳徳神、入谷町・静の男舞い、上野町・經(経)基、初音町三丁目・二柱の神など多い。(以上其四)
秀英の人形の顔
 確認している12体の人形の顔を、複数の角度から撮ったものなどを含み、作られた年の古いものから左上から右へ並べた。各人形のデータは、別ページに記載した。
とくに12体のうち5体は、あるものは明治時代から、その他のものも昭和初期から山車に搭載されておらず、少なくとも顔は損傷も少なく、修復もされていないと考えられオリジナルのままを見ることができる。
代目がわかっている人形は、翁のみが3代作であると〔川越氷川祭りの山車行事〕(以下〔山車行事〕という)に記載されているが、出典など不明。
首を胴に組む方法は、手力男之命〜小野道風の4体が「丸穴」、日本武尊以降は、「角穴」である。(情報源みち藤様)
修復は、山王猿(H)は顔の胡粉の剥落などにより塗り直しが行われたが、仲 秀英の面影を損なっていないという〔山車行事〕が、1年前に作られた翁と比べるとかなり綺麗になっている。天鈿女命(I)は、全面的な塗り直しが行われ、京風の顔になっており、また、三番叟(L)も全面的に胡粉が塗られ、京顔になっている。(以上〔山車行事〕)

顔はどれも個性的で味のある顔立ちで、細かいところまで作り込んであり、芸術的な価値の高いものが多い。
注1)修復を“なし”としているものでも、修復の記載や情報の公開などがないものがあり、修復が完全にないとはいえない。
  2)各人形が仲 秀英作であるとの情報は、おもに公開されている本・パンフレットなどによるもので、その裏は取っていない。
人  形 手力男
之命
武内
宿禰
日本
武尊
小野
道風
織田
信長
羅陵王 山王猿 天鈿
女命
神功
皇后
源義家 三番叟
記 号
山車の
搭 載
あり なし なし なし あり あり あり あり あり なし なし あり
代 目 不明 不明 不明 不明 不明 不明 3代目 不明 不明 不明 不明 不明
組 立 丸穴 丸穴凹 丸穴 丸穴 角穴 角穴 角穴 角穴 角穴 角穴 角穴 角穴
修 復 なし なし なし なし なし なし なし あり 塗直し
京風
なし なし 塗直し
京顔
手力男之命 武内宿禰 日本武尊
小野道風 織田信長・羅陵王 羅陵王
翁 山王猿 天鈿女命
神功皇后 源 義家 三番叟
資料のまとめ
 以上の資料には整合性のない点もあるが、まとめると次のとおりである。
古川 長延は、13才で2代目都梁齋仲秀英へ弟子入りした。2代目は39才で亡くなった。10年の年期を勤め、禮奉公を1年して、師匠の“仲”を貰って仲英真として十軒店へ店を出した。白壁町の蛭子の人形は、親方が途中で亡くなったため、親方の名前で作った。3代目についての談話はない。〔千代田日報〕
秀英の長男熊次郎が10才頃(数え1884)、父秀英没。3代目秀英は、日本橋災害記録史と戸籍謄本から、明治17〜20年(1884〜1887)に40〜50才で没と推定。〔寄稿〕

秀英の生没年・人形の製作年令の推定
秀英は何代まで続いたかについての確証はない。ただ、生き証人であった古川 長延の〔千代田日報〕の談話に2代目がいたことは述べられている。3代目については、〔寄稿〕に一言でてくるがその裏付けはない。
12体の人形は、最初の手力男之命(天保年間1830〜1844)から最後の三番叟(1874年)までの44〜30年間に作られており、2代目は39才で早逝したとはいえ、初代と2代目で作ることは可能である。しかし、この裏付けも得られない。
そこで、秀英は初代・2代目・3代目がいたとして考える。なお、初代についての情報は皆無である。
〔千代田日報〕の談話にある白壁町の蛭子の人形は、神田御祭礼番附の35番に出てくる。番附は、寛政5年(1793)から文久元年(1861)の間の25年分がある。山車人形は、途中、各1回「岩に月に薄」「牡丹か」「不詳」と最後に「蛭子神」が載っているが、他はすべて「恵比寿、恵比寿人形、恵比寿神」となっている。古川 長延の「白壁町の蛭子」の人形は、親方が途中で亡くなったため、親方の名前で作ったとの談話から、この「白壁町の蛭子」は、番附の最後の文久元年(1861)に載っていた人形とし、この年を2代目の没年とする。また、享年39才であったとの談話から、2代目の生没を文政5年(1822)〜文久元年(1861)とした。
寄稿〕によれば、3代目としている秀英の没年は、熊次郎10才頃(1884)と明治17〜20年(1884〜1887)としている。
没年のA説として、両記述がかぶっている明治17年(1884)を秀英の没年とする。また、B説として、三番叟はその前の義家との間に14年間もあり、明治初期の混乱により製作依頼がなかったのかもわからないが、幕府崩壊(注1)前後でも多くの人形が作られていたことからすれば、3代目作の疑問は残るが、三番叟は3代目が作ったとし、それが作られた明治21年(1888)を没年とする。
寿命は、40〜50才としているので、その中を取り45才とする。
以上とすると、3代目は、A説として天保10年(1839)誕生〜明治17年(1884)没、B説として天保14年(1843)誕生〜明治21年(1888)没となる。
なお、数え年などの換算で1年程度の誤差がでる場合がある。

注1)幕府崩壊:慶応3年10月14日(1867)に十五代将軍徳川慶喜が大政奉還して幕を閉じ、翌月将軍職も辞した。広義の幕藩体制は、明治4年(1871)の廃藩置県をもって終焉とすることもある。
年表
 以上を年表にすると下表とおりであり、つぎのことがいえる。
古川 長延が弟子入りしたときの2代目仲 秀英は、A説では17才、B説では21才となる。どちらも弟子を取る年令としては若いが、享年45才としたのが短いのかもわからないし、また、上手に人形を拵えていたとの古川 長延の談話から、すでにこの年で仲 秀英の一家を支えるだけの腕を持っていたともいえる。
しかし、レオナルド・ダ・ビンチ(注1)は「受胎告知」を18才で描いているし、また、多くの山車の彫刻を手がけた名彫刻師・立川和四郎富昌(注2)も若くして活躍していることなどから、17才・20才は必ずしも若いとはいえないかも。
3代目は、A説では2代目の18才の子、B説では22才の子になる。とくにA説の18才はあまりにも早いように思われるが、これも享年45才が短いのかもわからないし、また、2代目は腕がたったことから十分な収入があり、早く結婚したとも考えられる。
これら、弟子入りの年令や3代目が生まれた年令は、多少の誤差はあるにしても、仲 秀英がいう言葉を借りれば「矢鱈に頓珍漢なことはない」といえるのでは。


注1)レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519):受胎告知(1470)を18才、キリストの洗礼(1471)を19才、最後の晩餐(1495)を43才で描いている。
注2)立川和四郎富昌(二代目和四郎)天明2年〜安政3年(1782〜1856):父から受け継いだ立川流彫刻を、若い頃から「幕末の左甚五郎」と異名され、天才的な才能と美術感覚で彫刻を芸術として開花させた。
仲 秀英年表
製作年令の推定と作者(代目)
各人形を作った秀英の年令を算定すると次表のとおりである。濃い赤塗り欄は、10代後半から作ったとして、各代目が作り得た人形を示す。初代の濃い赤塗り欄は、2代目では難しいとされることから塗ったものである。
 首の組立方法の丸穴・角穴は、代目が同じでも両方を採用することもあると思われるが、丸穴:手力男之命〜小野道風、角穴:織田信長〜三番叟の違いを加味して各人形の代目を推測すれば
 初代:手力男之命
 2代目:手力男之命〜小野道風
 3代目:織田信長〜三番叟
が考えられる。
顔立ちから代目の推理は、翁(G)・山王猿(H)には比較的類似性があるが、他の人形は個性的な人形が多く、また、修復されたものもあり難しい。修正などないとされる織田信長(E)・翁(G)・神功皇后(J)を見比べると、とても同一人物が作ったとは思えず、作者の力量に驚きを感じる。この時代は、人形の依頼主の意向もあるだろうが、作者の主張を表現することが難しい時代だったのであろうか。

数字の遊びのようになったが、なりたつ範囲の結果になったことに、びっくりしている。
人  形 手力男
之命
武内
宿禰
日本
武尊
小野
道風
織田
信長
羅陵王 山王猿 天鈿
女命
神功
皇后
義家 三番叟
初 代
年令
2代目
年令
8〜22 26〜32 28 37 没後 没後 没後 没後 没後 没後 没後 没後
3代目
年令
A説
誕生前 〜14才 11 20 23 23 31 32 33 35 35 没後
3代目
年令
B説
誕生前 誕生前 16 19 19 27 28 29 31 31 45
  
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