|
|
|
|
赤坂氷川神社と祭礼
赤坂氷川神社には、山車人形や完全ではないが山車が残る。
東京大学大学院情報学環・学際情報学府が公開している「小野秀雄コレクション」の中に赤坂氷川神社例大祭(以下「氷川神社祭礼」という)の13枚、日枝神社・山王まつり(以下「山王まつり」という)の10枚、神田祭の3枚の番付(以下「小野番付」という)がある。山王まつりや神田祭の番付は広く目にすることができるが、氷川神社祭礼のものは、「続・江戸型山車のゆくえ」(以下「ゆくえ」という)などに目録はあるが絵は初めて見聞きするものである。
ゆくえと小野番付、「赤坂氷川神社 御用祭と氷川山車」(以下御用祭・氷川山車という)、大絵馬などから、氷川神社祭礼の山車について検討した。
赤坂氷川神社の創建は明らかでないが、もとは一ッ木(現在の赤坂四の一)附近にあったものを、享保年間に現在地に遷座したとされ、当時は氷川大明神として民衆の信仰が篤かった。元赤坂に江戸藩邸があった八代将軍徳川吉宗は氷川大明神を産土神として祟敬し現在の社殿を享保15年(1730)に建立した。
当時の氷川大明神の祭礼は、宮神輿を氏子町赤坂13ヵ町の13台の山車が警固する形で氏子町内を巡行した。その情景は、小野番付や大絵馬に見られるように江戸時代から明治末期まで続けられた。
ゆくえには完成11年(1799)〜安政6年(1859)間の9枚の番付が載る。内7枚は発行年がはっきりしているが、1枚には「酉の年」としか書かれておらず、1枚はまったく発行年は不詳とある。内容は、山車(人形)の名前と一部岩組・笠鉾などの山車の形の記載があるが絵はなく詳細は不明である。山車一覧に示した。
小野番付の氷川神社祭礼の13枚は、重複しているものが1枚あり、祭礼年が書かれていないものが2枚あるため整理し山車一覧に示した。
番付で一番古い文化6年(1809)のものには既に山車の他に榊・獅子・神輿が描かれており、文政6年(1823)以降のものには榊・獅子頭・神馬・猿田彦・神幟・騎乗の神主なども描かれ、当時の神幸祭の様子がよくわかる。
山車については、山王まつり・神田祭では番付の一部にしか書かれていない「笠鉾・高欄・岩組など」山車の形の注記が氷川神社祭礼の番付には、ほとんどの各山車に書かれている。また、付祭(山車以外をいっている)の踊台や造物地車などには、手引10人とか手引・子供打交15人・持人5人などと書かれている。
ゆくえと小野番付の番付の発行年の重複は、文化6年(1809)と文化12年の2枚のみで、お互いの欠落部分を補完できる。複数の版元が同一の祭りの番付を発行したとされる。しかし、ゆくえの番付の絵がないため重複番付が同じ版元のものか違う版元のものかは不明であるが、氷川神社祭礼に限れば重複がすくなく、複数の版元の番付が同一年に存在する可能性は少ないようである。
御用祭・氷川山車にある神社に保管されている4巻の「赤坂氷川大明神御祭礼留」(以下祭礼留という)は、安政2年(1855)〜文久元年(1861)と時代は下るが小野番付に続く時代のものであり、絵は描かれていないが付祭などに参加した個人名まで記録されている。
明治44年(1911)に描かれ氷川神社拝殿に奉納されている大絵馬には、小野番付や祭礼留に描かれた山車の形と違う御用祭・氷川山車でいう「赤坂氷川型」の4層の山車が描かれている。
祭礼留の最後の文政10年(1861)と大絵馬の明治44年(1911)との50年間でどんな経緯で山車の形が変わったのかの糾明は、今後の課題である。
江戸時代の山車は、明治初期の電線の架設や関東大震災などにより山王まつり・神田祭のものは地方へ分散したり廃棄されたり焼失しそのほとんどが都内から姿を消している。
しかし、山王まつり・神田祭に継いで盛大であったとされる氷川神社祭礼の山車は、完全な姿ではないが9台もの人形や山車の部分が祭礼留と一緒に神社の山車庫に保存されている。途中のブランクはあるものの、文化6年(1809)に描かれた姿と現在残っているものまで一貫して見ることができるのは、関東では赤坂氷川神社の山車しかなく、形の変遷を見ることができる貴重なものであるといえる。なお、2007年に「猩々の出し」「二人立ちの出し」が復元され、例大祭でお披露目されるという。
13台の山車の形は、初期は笠鉾や岩組多いが時代とともに変わり、各年の山車の形や付祭の出し物などに示すように時代を経るにしたがって高欄に変わり、明治44年には笠鉾は姿を消している。 |
|
|
天下祭と氷川神社祭礼
一般に天下祭といえば山王まつりと神田祭をさすが、赤坂氷川神社の祭神である素戔嗚尊崇拝は吉宗が生まれた紀州であるとの説があるほどで、前述したように吉宗の時代から将軍家と深いかかわりを持ち、その子の第九台家重も尊祟の念をいだいていたことなどから、赤坂氷川神社も天下祭と呼ばれてもいいとの説もある。(注1)
次表は、山王まつり・神田祭の天覧、両祭りと氷川神社祭礼の番付・祭礼留などを表にしたものである。山王まつり・神田祭は幕府の命で隔年に行われた。氷川神社祭礼も幕府の命があったかどうかは不明であるが神田祭と同じ西暦奇数年の隔年に行われている。
興味深いことは、3社の祭りの番付(青丸)がすべて同時代のものしか確認されていないことである。表中赤丸で示す天覧は、寛永12年(1635)から始まっているが、番付はその約180年も後の寛政4年(1792、山王まつりの番付)に始まり、徳川幕府崩壊頃に終わっている。作り始めは、誰かの発想で始まり流行ったと思われるが、終わりは山王まつりなどへの幕府の援助がなくなったことから祭りの衰退を意味する一つの現象を表すものであろう。 |
|
|
|
|
氷川神社祭礼の開催間隔
下表は、氷川神社祭礼が行われた年を番付などから表にしたもので、欠落している年もあるが、神田祭の番付と同じ西暦奇数年に行われていることがわかる。隔年で行われたのは経済的理由や1680年代に山王まつり・神田祭に対して出された幕府の隔年開催の命にならったものであろう。祭礼日は、京都八坂神社などの祇園会と同じ旧暦6月15日で、山王まつりとも同じであった。氷川神社の祭神の素戔嗚尊の祇園会は6月15日であり、山王まつりとの同日開催を避け9月15日の神田祭の年に行うようになったのであろう。
氷川神社祭礼についての記録は、下表以外に「武江年表」「東都歳時記」に、嘉永6年(1853)、文久3年(1863、神輿のみ渡る)、慶応元年(1865、神輿のみ渡る)、慶応3年(1867、神輿出ず。世の中騒然たり)、明治2年(1869、官幣使参向)がある。 |
| no. |
1 |
2・3 |
4 |
5 |
6・7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
神田祭番付
の有無 |
○
(あり) |
×
(なし) |
○ |
○ |
○ |
− |
○ |
× |
○ |
× |
○ |
氷川神社祭礼
番付など
(西暦) |
寛政11年
(1799) |
文化6巳年
(1809) |
文化8年
(1811) |
文化10年
(1813) |
文化12年
(1815) |
不明 |
文化14年
(1817) |
文政4年
(1821) |
文政6年
(1823) |
文政10年
(1827) |
天保2年
(1831) |
| 間 隔 |
− |
←10 |
←2 |
←2 |
←2 |
⇔ |
←2 |
←4 |
← 2 |
← 4 |
← 4 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| no. |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21・22 |
23 |
24 |
25 |
神田祭番付
の有無 |
× |
○ |
○ |
○ |
○ |
× |
○ |
○ |
○ |
− |
− |
氷川神社祭礼
番付など
(西暦) |
天保6年
(1835) |
天保8年
(1837) |
天保10年
(1839) |
天保12年
(1841) |
弘化4年
(1847) |
安政2年
(1855) |
安政4年
(1857) |
安政6年
(1859) |
文久元年
(1861) |
明治44年
(1911) |
2006 |
| 間 隔 |
←4 |
←2 |
← 2 |
← 2 |
← 6 |
←8 |
←2 |
←2 |
← 2 |
← 50 |
←95 |
|
|
|
明治44年の氷川神社祭礼
下絵は、赤坂氷川神社拝殿に掲げられている磯田長秋が描き横山政方が奉納した横幅が約2.5mもある大きな絵馬である。祭礼で、宮神輿を氏子の13台の山車が警護するように氏子町内を巡行した様子が描かれている。
山車は、3層赤坂氷川型、4層赤坂氷川型、岩組が描き分けられており、囃子座は唐破風屋根のものや欄間仕立てのものなどが見られ、所作を演じる山車もある。相州の鵠沼皇大神宮例祭などの山車は大唐破風屋根(山車の全長に載る屋根)から突き出すように3層が載るが、4層赤坂氷川型は囃子座の上だけで枠の部分に屋根はない。 |
 |
| 番付 |
旧町名
(現町名) |
絵馬(明治44年) |
残る人形
の姿(注) |
備 考 |
| 山車の形 |
人形 |
| 一番 |
表伝馬町1丁目
(赤坂表1・2町会) |
高欄 3層赤坂氷川型
囃子座は欄間仕立て |
猩々 |
○ |
− |
| 二番 |
表伝馬町2丁目
(赤坂表1・2町会) |
高欄 3層赤坂氷川型 |
猿 |
× |
弘化2年(1845)作 |
| 三番 |
裏伝馬町1丁目
(伝馬町町会) |
高欄 3層赤坂氷川型
囃子座に唐破風屋根 |
翁 |
△ |
− |
| 四番 |
裏伝馬町2丁目
(伝馬町町会) |
高欄 4層赤坂氷川型
囃子座は欄間仕立て |
源 頼義 |
○ |
弘化3年(1846)作 |
| 五番 |
裏伝馬町3丁目
(−) |
高欄 3層 or 4層赤坂氷川型 |
関羽雲長 |
× |
埼玉県へ売却 |
| 六・七番 |
元赤坂町
(−) |
高欄 3層 or 4層赤坂氷川型 |
神功皇后
武内宿禰 |
× |
− |
| 八番 |
田町1・2・3丁目
(赤坂見附会) |
岩組 |
恵比寿 |
△ |
昭和初年作 |
| 九番 |
田町4・5丁目
(赤坂田町3・4・5丁目) |
高欄 3層 or 4層赤坂氷川型 |
神武天皇 |
△ |
大正4年(1915)山本鉄之作 |
十・十一
・十二番 |
一ッ木、魚町、大沢町
(赤坂一ッ木町会) |
高欄 3層 or 4層赤坂氷川型 |
源 頼朝 |
○ |
嘉永2年(1849)桃柳軒玉山作、面六修理 |
| 十三番 |
西大沢町
(−) |
− |
恵比寿 |
× |
− |
| 十四番 |
新町1丁目
(−) |
太鼓台形 |
諌鼓鳥 |
× |
− |
| 十五番 |
新町2・3丁目
(赤坂新二会) |
高欄 3層 or 4層赤坂氷川型 |
二人立 |
○ |
文久3年(1863)作 |
| 十六番 |
新町4・5丁目
(赤坂6・7丁目町会) |
高欄 4層赤坂氷川型 |
日本武尊 |
○ |
嘉永6年(1859)作 |
|
注)残る人形の姿。
○:完全な姿で残る △:部分的に残る ×:残っていない |
|
|
山車人形の推移
以上の資料によれば、山車は文化6年(1809)〜明治44年(1911)の間、氷川神社の旧表伝馬町一丁目、表伝馬町二丁目、裏伝馬町一丁目、裏伝馬町二丁目、裏伝馬町三丁目、元赤坂町・同代地、田町一二三丁目、田町四五丁目・一ッ木・魚店・大沢町、西大沢町、新町一丁目、新町二三丁目、新町四五丁目の13ヵ町から13台が次表の人形を載せて出ている。
一・二・三番は通して同じ人形を載せているが、五番は9種類、六七番は8種類もの人形を載せている。十五番と十六番の山車は、焼失などで人形を載せられないときに出す武蔵野を5回・6回もそれぞれ離れた年に出している。 |
| 番付 |
旧町名 |
山車人形 (載せた回数) |
| 一番 |
表伝馬町一丁目 |
猩々(18) |
| 二番 |
表伝馬町二丁目 |
猿(18) |
| 三番 |
裏伝馬町一丁目 |
翁(18) |
| 四番 |
裏伝馬町二丁目 |
源頼義(14)、僧正坊(2)、花籠(2) |
| 五番 |
裏伝馬町三丁目 |
源為朝(3)、新田義貞(3)、関羽雲長(3)、花籠(3)、源頼光(1)、土蜘蛛と金時(1)、龍神(1)、鶴ヶ岡(1)、牡丹(1)、不出場(1) |
| 六七番 |
元赤坂町
同代地 |
武内宿禰(6)、神功皇后(3)、神功皇后・武内宿禰(1)、素戔嗚尊(2)、関羽雲長(2)、浦島太郎(1)、日の出と稲穂(1)、宝船(1)、不出場(1) |
| 八番 |
田町一二三丁目 |
恵比寿(17)、不出場(1) |
| 九番 |
田町四五丁目 |
弁財天(9)、神武天皇(2)、干し網(2)、神功皇后(1)、加藤清正(1)、剣(1)、布晒婦女(1)、武蔵野(1)、 |
十
十一
十二番 |
一ッ木
魚店
大沢町 |
鍬形剱(8)、源頼朝(6)、弁慶(2)、熊・兎(1)、草刈人形(1) |
| 十三番 |
西大沢町 |
恵比寿(14)、蓬莱(1)、武蔵野(1)、不出場(2) |
| 十四番 |
新町一丁目 |
諌鼓鳥(12)、布袋(1)、加藤清正(1)、源頼朝(1)、龍(1)、二見浦(1)、不出場(1) |
| 十五番 |
新町二三丁目 |
翁(7)、武蔵野(5、内1件は16番と共同出場)、二人立(2)、喰積三宝(2)、海老の宝(1)、不出場(1) |
| 十六番 |
新町四五丁目 |
武蔵野(6、内1件は15番と共同出場)、日本武尊(5)、西母王(2)、鯰匏子(1)、瓢箪・鯰(1)、牡丹(1)、司馬温公(1)、不出場(1) |
|
|
|
| 注1) 東京都港区教育委員会編集・発行の港区文化財調査報告書「赤坂氷川神社 御用祭と氷川山車」。 |
|