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このページは、千葉県我孫子市の神社についてのもので、非常にローカルなページである。
我孫子の神社は、我孫子市発行「我孫子市史:民族・文化」によると32社ある。32社以外にも会社の屋上や構内、個人の家の庭先などに小さな祠があり、稲荷神社などが祀られているのが見かけられる。32社は私有地や社有地など以外の宗教法人などや公の土地に建っている神社をとりあげたものと思われる。
32社中で八幡神社が6社、稲荷神社が4社、香取神社が3社、天満宮が2社など同じ神を祀った神社がある。
古代(注2)において神社は、新たに耕作地を開くときに、そこに住む人たちが神域を定めて社を造り祭りを行ったとされる古文書もあり、生活範囲と神域は区別されていたとされている。
我孫子には、「延喜式」(注3)に記載されている古い神社はないが、古代に草創されたとされる神社もある。天照神社・中峠は、神代に日本武尊が東征の途中でこの地に天照大神の神籬(ひもろぎ)(注4)を建て武運を祈願したとされ、それに因んで社を建てたとされる。愛宕神社・布佐は、延期式に下総国の小社として記載されている古社の下総国相馬郡(現在の茨城県利根町)の文間の蛟ち(みずち)神社から文武天皇3年(699)に分社したとされる。その他、竹内神社・布佐、葺不合神社・新木、香取神社・高野山、八幡神社・中峠なども平安時代にさかのぼる草創の伝承がある。
中世にはいると、北斗星を神格化し妙見尊を祀り妙見社と称した北星神社・根戸、柴崎神社・柴崎がある。妙見尊は、下総に勢力を持っていた千葉氏が信仰した守護神で、その影響を受けている。八坂神社・都部、八坂神社・白山もこの時代の草創といわれている。
この時代のものとして、八幡神社・中峠に、奉納された御正体(注5)が残っており、年代的に東京国立博物館にある重要文化財の天文19年(1550)の銘がある千葉寺境内出土梅竹透文釣灯籠と同じ栃木県佐野天明産とされ貴重なものとされている。
天正18年(1590)には小田原北条氏が亡び、北条氏の支配下にあった我孫子の城主たちも四散し、神社や寺院は、城主の保護を失い、地元住民へ移り、部落の神社になり、鎮守の神や生産を守る産土の神を信仰する氏子として住民とのつながりが深まった。
近世になると関八州を支配した徳川氏の時代になり、三代将軍家光の時代に寺社奉行が置かれ、寺請(注6)制度が布かれ、神社・寺院が隆盛になり、神社の社殿の建築が盛んに行われた。それまでの社殿は、祠程度のものであったが本格的な社殿が建てられ、香取神社・高野山の現在の権現造社殿の中に納められている宝宮は当時のものとされている。また、八幡神社・岡発戸の本殿も正徳4年(1714)の棟札が残っており、そのころの創建と思われている。
明治元年に行われた神仏分離は、我孫子にも影響をおよぼした。それまで神社の祭事に関与してきた別当としての寺院が、太政官布告「神仏号ノ区別ニ関スル件」の神仏分離により、神社は別当寺院の管理下から離れた。これに伴って、愛宕神社・布佐の別当であった大乗寺や地蔵院、不動院、来正院などで行われていた山伏修験、加持祈祷が禁止になり、寺・院が廃されたことなどがある。
明治5年には、地方の神社を一村一社に統合するために「府県郷村社区別調」が神祗省から布達され、神社の合併が進み、村社ができた。この方針にもとづき、明治12年の神社明細書に記載された我孫子の神社は、下表に示す郷社1、村社18、無資格社8の合計27社に統合されている。 |
| 明治13年頃の神社 |
対応する現在の神社 |
| 社号・所在地 |
社格 |
氏子数 |
社号・所在地 |
番号 |
| 北星社・根戸村 |
村社 |
106戸 |
北星神社・台田 |
4 |
| 八坂神社・根戸村 |
無資格社 |
585人 |
− |
− |
| 水神社・根戸新田 |
村社 |
3戸 |
水神社:根戸新田 |
35 |
| 鵞神社・久寺家村 |
無資格→村社 |
325人 |
鵞神社・久寺家 |
7 |
| 香取神社・我孫子宿 |
村社 |
170戸 |
香取神社・緑 |
6 |
| 八坂神社・我孫子宿 |
無資格社 |
170戸 |
八坂神社・白山 |
3 |
| 柴崎神社・柴崎村 |
村社 |
96戸 |
柴崎神社・柴崎 |
1 |
| 八幡神社・青山村 |
村社 |
64戸 |
八幡神社・青山 |
11 |
| 香取神社・高野山村 |
村社 |
26戸 |
香取神社・高野山 |
2 |
| 水神社・高野山村新田 |
無資格社 |
8戸 |
− |
− |
| 天神社・下ケ戸村 |
無資格→村社 |
65戸 |
− |
− |
| 若宮八幡神社・岡発戸村 |
村社 |
58戸 |
八幡神社:岡発戸 |
14 |
| 八幡神社・岡発戸新田 |
村社 |
18戸 |
八幡神社・岡発戸新田 |
12 |
| 八坂神社・都部村 |
村社 |
35戸 |
八坂神社:都部 |
15 |
| 八幡神社・中峠村 |
村社 |
200戸 |
八幡神社:湖北台 |
10 |
| 天照神社・中峠村 |
無資格社 |
200戸 |
天照神社:中峠 |
19 |
| 水神社・中峠村 |
〃 |
200戸 |
− |
− |
| 諏訪神社・中里村 |
村社 |
53戸 |
諏訪神社:中里 |
22 |
| 稲荷神社・古都村 |
村社 |
264人 |
稲荷大明神:湖北台 |
16 |
| 将門神社・日秀村 |
村社 |
108人 |
将門神社:日秀 |
23 |
| 香取神社・新木村 |
村社 |
264人 |
香取神社:新木 |
26 |
| 厳島神社→葺不合神社・新木村 |
無資格社 |
443人 |
葺不合神社:新木 |
27 |
| 水神社・江蔵地村 |
村社 |
24戸 |
水神社・江蔵地村 |
28 |
| 竹内神社・布佐村 |
郷社 |
442戸 |
竹内神社:布佐 |
31 |
| 浅間神社・布佐村 |
村社 |
26戸 |
浅間神社:布佐 |
29 |
| 稲荷神社・布佐下新田 |
村社 |
29戸 |
稲荷神社:布佐下新田 |
30 |
| 愛宕神社・布佐村 |
村社 |
442戸 |
愛宕・八坂神社:布佐 |
32 |
| − |
− |
− |
八幡宮:根戸 |
5 |
| − |
− |
− |
金八稲荷・寿 |
8 |
| − |
− |
− |
千勝神社・高野山新田 |
9 |
| − |
− |
− |
天満宮・柴崎 |
10 |
| − |
− |
− |
八幡神社:下ケ戸 |
13 |
| − |
− |
− |
水神社:都部新田 |
17 |
| − |
− |
− |
足尾山神社:中峠 |
20 |
| − |
− |
− |
稲荷神社:中峠 |
21 |
| − |
− |
− |
稲荷神社:古戸 |
24 |
| − |
− |
− |
天満宮:古戸 |
25 |
| − |
− |
− |
石尊宮 |
33 |
| − |
− |
− |
厳島神社 |
34 |
| 注)氏子数が同じ神社は、神社の所在地の住民を共通の氏子として登録したとされる。 |
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神社の整理統合はその後の明治39年の勅令および内務省通牒により、より徹底がはかられ、集落の小祠を村社に集めたが、住民は親しみのある道祖神などの信仰の対象を失った。
このように今でこそ我孫子は、市として一つの大きな町になっているが、昭和45年頃から人口の多い町になったばかりであり、上表のように明治初期は最大でも442戸の多くの小さな「村」が集まった地域であった。その後、神社は統合されることなく今に続いているために、今の大きな町に多くの神社(小さな)が残っている状況にある。
したがって、これらの神社は小さく(氏子が少なく)、祭りもおせいじにも盛大とはいえず、神輿や屋台・山車がでる祭りは少ない。今では我孫子市の中心になっているJR我孫子駅前の八坂神社(3)の祭りに、屋台・神輿はでるが、盛大な祭り(露店は多いが)、立派な屋台とはいえない。唯一布佐地区の竹内神社(31)の祭りには、神輿と本格的な屋台がでる。布佐地区は、新四国相馬霊場八十八カ所の取手市小文間の十六番札所観音堂から小貝川の渡船場にでて布佐に渡ってくる人や筑波山南側から成田山詣でなどに来る人たちを運ぶ利根川北岸の布川とつなぐ舟渡場の宿場町として栄えたときに盛んだった祭りが今に伝えられているものである。
神社の祭りを盛んにする重要な要因の一つは氏子、ひいては町の人口の多さである。現在の我孫子は人口の多さでは要因を満足しているが、現在の人口が127,718人にも増えたのは、前にも述べたように、昭和45年頃からであり、増えた人口のほとんどが東京のベッドタウンとしてのいわゆる新市民である。いろいろな娯楽が多い現代では、今から神社の祭りを盛んにする勢いは興ってこない。
このHPでは、神社を足で見て廻り、各神社の今の姿をまとめた。
各神社へは、左のIndexから入ってください。各神社の番号をクリックすると所在地がわかる地図へジャンプします。
ご意見、間違いなどありましたら是非 E-Mail 頂ければ幸いです。 |
注1)お札などの販売
示しているのは平時の状態で、平時には販売されていなくても、年始や例祭時などには販売されている神社もある。
2)日本の古代・中世・近世・近代
G原始:旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、白鳳文化から邪馬代国まど。
G古代:縄文時代以降の大和朝廷時代(原始古代)から奈良、平安時代まで。
G中世:平安末期、鎌倉、南北朝、室町、戦国時代まで。
G近世:安土・桃山から江戸時代まで。
G近代:明治維新から太平洋戦争の終結まで。
G現代:太平洋戦争終結以降、現在まで。
3)延喜式・延喜式内社:延喜年間(901〜923)に作成された書物に記録されている神社。延喜式とは、律令を補足した施行細則で、格式の一つで、延喜年間に編まれたことから「延喜式」といわれ、当時の政治万搬が網羅されている。全50巻から成り、「神社」に関しては第1巻〜第10巻の神祇式に、四時祭・臨時祭・斎宮寮・斎院司・祝詞・神名帳が収められている。
延喜式の神名帳に載っているのは、国家が公認し、幣帛を奉った神社で2861社の神社、神では3132座が載っている。
「内社」とは、延喜式に載っている神社をいい、それ以外の神社を「式外」という。
4)神籬(ひもろぎ):古代の神道は、社殿に神を祀らず、自然の巨大な石・岩・木や山などに神が宿るとして信仰の対象している。また、神は祭りのときだけ高天原から迎えるとの思想で、今でも社殿などがない場所で祭りを行うときには、依代(よりしろ)=神籬を設けて行う。
神籬は、神の居る場所を俗界と区分する神聖な籬(まがき)すなはち“垣根”の意味で、大和言葉では、“ひもろぎ”の“ひ”は神霊、“もろ”は古語で天下ることを“あもる”といったのがちじまった言葉、“き”は木であり、“ひもろぎ”とは、“神霊の天下る木”と解釈されている。
5)御正体(みしょうたい):円形の銅鏡に神像・仏像・梵字などを彫ったり鋳だして、神社・寺院に奉納して礼拝した。鏡は、三種の神器のひとつでもあり、神社の神体として祀られることもあったが、神仏混合で本地仏の像や種子が描かれるようになった。鎌倉・室町時代には、御正体を懸仏(かけぼとけ)として内陣にかけて拝んだ。
6)寺請(てらうけ):三代将軍家光の時代に寺社奉行を置くと同時に、庶民がキリシタン信徒ではなく檀徒であることを、その檀那寺に証明させた制度。 |
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| 神社名 |
柴崎神社 |
| 所在地 |
我孫子市柴崎 |
| 御祭神 |
天御中主命(あめのみなかぬし、注1)、他六神を合祀 |
由緒
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かっては妙見社と呼ばれ、明治元年に北星社となり、明治13年に芝崎神社になった。日本武尊が東国討伐の途次立ち寄り武運を祈り、また平将門も祈願所として崇敬篤く、土豪芝崎左馬督は社殿を改築し、相馬家一門も累代の守護神として崇め、相馬重胤は奥州に分社を建立、芝崎城主荒木三河守が社殿を改修したとされ、この神社で武運を祈ったと伝承されている。 |
| 例祭 |
(不明) |
庚申塔
庚申塔の形状、
表示、造立年 |
@形状:山形、表示:彫像塔「奉造立 庚申石像 一躰」、造立年:享保4(1719)
A不詳、不詳、不明
B角柱形、青面金剛、文化6(1809)
C角柱形、庚申塚、文政9(1826)
D山形、彫像塔「奉造立 青面金剛 東源寺」、正徳5(1715) |
| 見所 |
p神社および隣の円福寺の両境内は、戦国期の城郭址を思われる跡があり、神社の裏手の道路は今も空堀の名残がある。
p昭和54年に発見された板碑(注2)は、市内で最古紀年(永仁6年:1298)のものである。
p享和3年に造立された石造の鳥居としては我孫子で最も早い建立の石造明神鳥居。 |
| お札などの販売 |
社務所:○、お札:○、お守り:○、おみくじ:○、お祓い:○ |
| 後記 |
お祓いは心付けとのことで、わからないためどのくらいと神社の人に尋ねたところ、「家内安全と交通安全で10,000円」とのこと。縁起物とはいえ足下を見た設定か? |
| 注記 |
注1)天御中主神(あまのみなかぬしのかみ):古事記で、造化の三神のひとつで、天地開闢(かいびゃく)のはじめ宇宙に一番最初に出現し、高天原の主になった。秩父神社では、妙見菩薩と結びつけている。
2)板碑(いたび):主に中世に作られた石造りの板状の供養塔卒塔婆(そとば)。多くは、武蔵型板碑といわれる秩父地方特産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)で造られており、色が青いことから青色板碑という。頭部は山形に形作られ、上部に仏の種子や仏像、下部には偈(げ)・紀年・氏名などが刻まれている。そもそもは、鎌倉・室町時代に死者を追善し、生前の逆修供養のための卒塔婆として建立された武蔵野国に興った文化で特に関東に多い。埼玉県大里郡江南村須賀広に残る嘉禄3年(1227)の銘のあるものが日本最古のものとされている。
3)社殿:神社の建造物の総称。本殿(祭神や神体が祀られている)、拝殿(参拝者が拝礼をする建物)、弊殿(へいでん、神さまに供え物をするための建物)、御饌殿(みけでん、神の食事の準備をする建物)、神楽殿(かぐらでん)・舞殿(ぶでん、奉納のための神楽や舞が行われる建物)、祓殿(はらえでん、心身を清浄にするためのお祓いが行われる建物)、直会殿(なおらいでん、祭儀終了後、神職や参列者が直会を行うための建物)などが神社の規模に応じて建てられている。
4)狛犬:「高麗犬」「胡麻太」とも書く。狛犬の原形はオリエント、インドにおけるライオン像で、それが中国大陸から朝鮮半鳥を経て渡来した。神社の守護と魔除のために置かれている。一般的に狛犬は、一方は口を開け、一方は口を閉じ「阿吽(あうん)」を表している。
しかし、一対とも口を開けていたり、閉じていたり、後ろ足で立っていたりする狛犬もある。口を開けた左側の狛犬を“獅子”ということもある。 |
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拝殿を正面から見る。
社殿は昭和62年新築で、本殿は神明造、銅板葺。拝殿は切妻造、銅板葺。左右に2対の狛犬が見える。拝殿に近い方が小型の古いもの、手前が新しい狛犬。 |
本殿と拝殿(注3)を側面から見る。 |
2対の狛犬(注4)。上1対は小型の古いもの、下は大きい新しいもの。 |
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神社名
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香取神社:高野山 |
| 所在地 |
我孫子市高野山字船戸台 |
| 御祭神 |
経津主命(注1)(ふつぬしのみこと) |
| 由緒 |
現社殿は、昭和53年改築のコンクリート建築の権現造で、奥の本殿内部に流造板葺の社殿が納められている。この流造板葺の社殿は、享保15年(1730)造立された「宝宮」とされている。 |
| 例祭 |
1月と10月に全30数戸の氏子により内輪で実施。 -a- |
庚申塔
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@板碑形、文字塔「奉造立 庚申講衆二世安楽所」、万治2(1659)
A山形、彫像塔「奉造立 庚申供養二世安楽所敬白」、元禄12(1699)
B駒形、文字塔「青面金剛王」、寛政9(1797)
C角柱形、彫像塔「青面金剛」、文化4(1807)
Dその他、彫像塔、文化10(1813)
E駒形、文字塔「庚申塔」、嘉永6(1853)
F灯籠、文字塔「奉待庚申供養為二世安楽也」、宝暦4(1754)
G灯籠、文字塔「奉待庚申供養為二世安楽也」、天保11(1840)
H駒形、彫像塔、大正4(1915)
百庚申
p駒形:百基
p文字塔「庚申塔」:91基
p天保15(1844):12基、弘化2〜5(1845〜1848):14基
嘉永元〜5(1848〜1852):73基、明治44(1911):1基 |
| 見所 |
p百庚申塔
p樹齢500年のオオイチョウや樹齢300年の杉などに囲まれた閑静な境内
p水神山古墳 |
| お札などの販売 |
社務所:○、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)経津主命(ふつぬしのみこと):日本神話で、磐筒男神・磐筒女神の子で、建御雷之男神とともに、葦原中国平定を成し遂げたとされる。しかし、古事記や旧事本紀では、建御雷之男神と同じ神とされている。経津主神は、千葉県香取神宮に、建御雷之男神は川向こうの茨城県鹿島神宮に祀られている。
2)百庚申:人間の体の中には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の夜、その就寝中に人体を抜け出し、天に昇って天帝にその人の行状を報告する。天帝はこれを逐一記録し、その罪の大小多寡によりその人の寿命を削減する。これを防ぐために、人々は庚申の夜に集まって飲食し、遊び事をして、その夜は寝ないようにする。そしてその会合の回数を重ねるに随ってこれを記念し、また祈願の成就を感謝して、建立したのが庚申塔である。青面金剛
を表したものは仏教系、猿田彦の文字を刻んだ塔は神道系といわれている。
3)前方後円墳:日本の古墳を代表する独特の古墳で、平面が円形と長方形あるいは台形をつないだ形の墳墓。前方後円の名前は、蒲生君平の「山陵志」に始まるが、方丘部が前であるという確証はなく、前方部のもつ意味についても定説はない。前方後円墳の出現により、古墳時代が成立したとされ、首長は主に前方後円墳に埋葬された。 |
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手賀沼沿いの自動車道から神社へ登る石段の手前に市内有数の推定樹齢500年とされるチチイチョウがあり、また絵に見える社殿の前にも2本の太いイチョウが植えられている。
社殿は、佐原市香取神社と同じ朱塗りで、境内にはイロハカエデ、樹齢300年の杉、ヤブツバキ、コブシなどが植えられている。 |
百庚申(注2):我孫子の庚申塔は399基ある。この内百庚申と呼ばれるものは3カ所あるが、香取神社の百庚申はちょうど百基あり尊いものである。それらの百庚申塔は、社殿へ向かう参道の両側に配されており、製作年代は天保15年(1844)〜嘉永5年(1852)(明治44年:1911に補修したのもあり)であるが、もともとは成田街道にあったものを明治時代に香取神社の境内へ合祀したとされている。文字塔と彫像塔があり是非一見の価値がある。*23 |
境内に5世紀後半に築造された東葛飾地方最大の前方後円墳(注3)の水神山古墳がある。大きさは長さ63m、東側の前方部の幅23m、西側の後円部の径32m、高さ5m。割竹形木棺、管玉、小玉、刀子、針束が出土しているが、埴輪、武具は出土していない。
古墳は、手賀沼を見下ろす日当たりのよい高台にあるが、いわれればそうかと思う程度の小高い土塊である。 |
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| 神社名 |
八坂神社(注1):白山 |
| 所在地 |
我孫子市白山 |
| 御祭神 |
素戔嗚尊(注2) |
由緒
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応永3年(1396)創建とされる。社殿は明治12年に再建され当時の「神社明細帳」には「社殿間数:間口3間、奥行4間」とあり今のものとほぼ同じ大きさである。
今の社殿は、入母屋造、瓦葺、塗りごめ。 |
| 例祭 |
7月中旬の土・日曜日 |
| 庚申塔 |
@駒形、文字塔「庚申塔」、天保12(1841)
A駒形、文字塔「 申塔」弘化4(1847) |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)八坂神社・津島神社・氷川神社:洛東の東山の円山の京都八坂神社や愛知県津島神社などは、牛頭天王が祀られている。牛頭天王は、須佐之男命である。八坂神社系列の神社には、祇園社と呼ばれるものが多い。須佐之男命を祀っている神社で最も勢力のあるのは氷川神社。中心は大宮市の氷川神社である。京都八坂神社は、天神祭、神田祭とともに日本三大祭とされる祇園祭が行われる。
2)素戔嗚尊(日本書紀)・須佐之男命(古事記)(すさのおのみこと):伊弉諾尊の子で、天照大神は姉。性格が凶暴で、天の岩屋戸の事件を起し、高天原から追放された。出雲国で八俣之大蛇(八岐大蛇)を退治し天敢雲剣を手に入れ、天照大御神への服従の意を込め献上した。剣は、三種の神器の一器となっている。
御霊信仰において、御霊会で退治できない御霊神を、素戔嗚尊の強力な霊力で封じ込めてもらうことにより御霊が素戔嗚尊のまわりに集まってくるために、荒ぶる神であり、恐ろしい神とされる。しかし同時に、これらの社会に祟り、災害をもたらす御霊を引き受けてくれるありがたい神である。インドの祇園精舎の守護神である忿怒相をした鬼神の牛頭天王と素戔嗚尊信仰が結びつき、牛頭天王と素戔嗚尊は、本地垂迹の関係で、一体の神仏と信じられるようになった。このことから、祇園御霊会(祇園祭)を天王祭といわれる。
3)種子:密教で仏や菩薩を表現するための古代インド語の梵字(サンスクリットを記すのに用いる文字)で、梵字は基本となる一字(親)に点や線を付けることで、いろいろな字(子)が生まれるので種子という。
例えば釈迦如来の種子は、バク 、阿弥陀如来は、キリク など。
4)庚申塔:人間の体の中には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の夜、その就寝中に人体を抜け出し、天に昇って天帝にその人の行状を報告する。天帝はこれを逐一記録し、その罪の大小多寡によりその人の寿命を削減する。これを防ぐために、人々は庚申の夜に集まって飲食し、遊び事をして、その夜は寝ないようにする。そしてその会合の回数を重ねるに随ってこれを記念し、また祈願の成就を感謝して、建立したのが庚申塔である。*23
青面金剛
を表したものは仏教系、猿田彦の文字を刻んだ塔は神道系といわれている。
5)氏子:古代社会においては、血縁関係にあった一族が祀った一族の祖先神あるいは守護神をいった。例えば、春日神社の祭神は藤原氏、梅宮神社は橘氏の先祖神である。中世以降は、土地の神、すなわち鎮守の神である産土神(産土とは生まれた土地という意味で、その土地を守護してくれる神)までを、氏神とするようになった。氏子は、古代社会では氏神を祀る氏族の子孫を意味したが、現在では氏族と関係なく、神社の祭祀の中に住む人達も、氏子と呼ぶようになっている。 |
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| 神社は、JR我孫子駅の南口から徒歩2分の成田街道(国道356号)の交差点角にあるが、昔の面影がいっぱいの建物。 |
社殿は、2001年に朱色に塗り直された。賽銭箱もなく既得な人のお賽銭は、戸溝にのせられている。しかし、商店街の中にあるだけに祭りは神輿や屋台がでて、多くの夜店もでて我孫子市の祭りの中では数少ない盛大に行われる神社。 |
2基ある内の1つの絵には、種子(注3)が刻まれている。「庚申塔」(注4)の上の文字が種子。 |
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2000 Edition
7月中旬の土・日に行われる祭りは、我孫子の神社のなかで数少ない神輿がでるが、昼間の神輿や屋台の練りは人気がない。夜店にはさすが12万市民の町のJR我孫子駅近くにある神社だけに賑わう。「氏子」(注5)の意識は、市民側にも神社側にも稀薄になったり、全くなくなってきており、祭りは単なるイベント化している。これは我孫子に限ったことでないが、石岡のおまつりなど神事も大切に伝承されている祭りも少なくない。 |
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2002 Edition
2002年7月20日・21日の祭礼は、20日が梅雨明け宣言の初日に当たり、両日とも暑い1日であった。21日は、3台の屋台と神輿が、400〜500m毎に造られた御神酒所で休息するため、30分進んで30分休む感じで炎天下の成田街道・国道#356を渡御していた。 |
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2003 Edition
2003年7月19日・20日の祭礼は、梅雨明けが遅れるなか、降られることなくときたま陽もさす祭りであった。今年は、神輿の担ぎ手も例年になく多く、3台の底抜け屋台には、大太鼓、締太鼓3、笛2〜3、所作の踊り手1人などが乗り込み賑やかに囃していた。御神酒所での接待は、焼きそば、豚汁、アイスクリーム、もちろんビールなどがふるまわれている。神輿の担ぎ手の衣裳は、成田祇園祭や石岡のおまつりに見られる白装束。 |
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| 神社名 |
北星神社 |
| 所在地 |
我孫子市台田4−11 |
| 御祭神 |
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと、注1) |
由緒
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相馬根戸城主が妙見菩薩(注2)を勧請奉祀したと言われ、文政7年(1824)の根戸村明細帳に、氏子による祭礼や奉謝が行われていたことが記されている。明治維新の神仏分離にともない、妙見菩薩は棄釈され、天御中主命を祭神とし、明治9年に妙検社を北星神社とした。
明治41年に村内の東大明神、香取社、天神社、第陸天社、稲荷社、白山社の7社を合祀した。境内に三峰社の末社がある。
昭和58年の国道6号線の2車線化などにともない社殿が改築された。社殿は、鉄筋コンクリート造り、拝殿、幣殿、本殿が連なっており、本殿内部に旧来の木造本殿が納められている。 |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
@駒形、文字塔「青面金剛」、天保12(1841)
A駒形、文字塔「青面金剛」、天保12(1841)
B駒形、文字塔「青面金剛」、天保9(1838)
C駒形、文字塔「青面金剛」、天保9(1838)
D駒形、文字塔「青面金剛」、天保6(1835)
E駒形、文字塔「青面金剛」、天保9(1838)
F駒形、文字塔「青面金剛」、天保14(1843)
G駒形、文字塔「青面金剛」、天保14(1843)
H駒形、文字塔「青面金剛」、天保14(1843)
I不整形、文字塔「庚申塔」、嘉永4(1851)
J不整形、文字塔「庚申塔」、安政4(1857) |
| 見所 |
p中世相馬氏の時代に創建されたとされる当社の付近一帯には、中世館跡の一部と見られる土塁・空堀が残る法華坊遺跡、中世の遺跡の根戸城址
p珍しい亀の狛犬、合祀された社群、10基の庚申塔を含む碑群
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| お札などの販売 |
社務所:○(無人)、お札:×、お守り:×、おみくじ:×、木の枝などにおみくじが結びつけられており、頂ける日があると思われる |
| 注記 |
注1)天御中主神(あまのみなかぬしのかみ):古事記で、造化の三神のひとつで、天地開闢(かいびゃく)のはじめ宇宙に一番最初に出現し、高天原の主になった。秩父神社では、妙見菩薩と結びつけている。
2)妙見菩薩:北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で、国土を擁護し災害を滅除し、人の福寿を増すという。特に、眼病平癒を祈る妙見法の本尊。主として日蓮宗で尊崇。 |
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| 都会風・今風の社殿。社殿手前に見えるのが亀の1対の狛犬。 |
合祀されている香取神社などの社殿。 |
11基の庚申塔を含む碑群。 |
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| 神社名 |
八幡宮:根戸 |
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ガイドブックの場所で探し回り、やっと見つけた幅2〜3m、奥行き4〜5mの敷地にひっそりと建つ祠。 |
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所在地
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我孫子市根戸 |
| 御祭神 |
(不明) |
| 由緒 |
(不明) |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔・ |
なし |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
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| 神社名 |
香取神社:緑 |
| 所在地 |
我孫子市緑1−6−8 |
| 御祭神 |
経津主命(ふつぬしのみこと)(注1) |
由緒
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ここに最初に奉斎されたのは、吉宗将軍の頃(享保年代:1716〜)とされている。天明8年(1788)の「我孫子村村差出明細帳」と文化6年(1809)の「村方明細書上帳」に「鎮守7ケ所」とあり当社はその中の1社と考えられている。社殿は焼失などにあい、現社殿は昭和56年に鉄筋コンクリート造りで新築されたものである。 |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
@山形、彫像塔「奉請 青面金剛」、享保4(1719)
A山形、彫像塔、天保8(1837)
B駒形、文字塔「青面金剛」、寛政9(1797)
C笠付き角柱形、文字塔「奉造庚申待講中」、享保11(1726) |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:○(無人)、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)経津主神(ふつぬしのかみ):日本神話で、磐筒男神・磐筒女神の子。日本書紀において、建御雷之男神とともに、葦原中国平定を成し遂げたたおされる。しかし、古事記や旧事本紀では、建御雷之男神と同じ神されている。経津主神は、千葉県香取神宮に、建御雷之男神は川向こうの鹿島神宮に祀られている。 |
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手前後方は手賀沼に臨む台地の端で急坂を下がれば手賀沼に至る。3対の狛犬が階段両脇に置かれている。
権現造、切妻造、向拝付で正面5.4m、側面4.5m、渡殿は拝殿より一段高くなり、本殿部分は流造で棟に千木と勝男木が置かれている。 |
今でも「村社」の名が残る門柱。 |
庚申塔4基を含む碑群。青面金剛庚申塔など興味深い碑が多い。 |
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| 神社名 |
鷲神社 |
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道路から14段の石段を登ると、参道、社殿へと続いている。
拝殿の前の両側に鷲の1対の置きものがある。左の鷲は口を開け、右の鷲は口をつむんでいる。その手前に1対の狛犬も飾られている。狛犬は左が口を開けているようである。(見間違いかもわからないので要確認) |
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| 本殿の屋根には千木、鰹木が付けられており、荘厳な趣がある。 |
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| 所在地 |
我孫子市久寺家362 |
| 御祭神 |
日本武尊 |
由緒
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平将門の家臣久寺家豊後大炊く左馬助が勧請したと伝えられ、古くは明神社と言われた。
旧社殿は元文2年(1737)の建立、その後万延2年(1861)再建され、その後現社殿が建て直されている。万延2年次既に鷲神社となっており、その後村社になっている。 |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
@角柱形、文字塔「青面金剛」、文政13(1830)
A角柱形、文字塔「青面金剛」、寛政6(1794)
B山形、文字塔「青面金剛王」、宝暦9(1759)
Cその他、彫像塔「青面金剛供養尊」、元文5(1740)
D駒形、文字塔「青面金剛」、天保10(1839)
E角柱形、、文字塔「青面金剛」、弘化5(1848)
Fその他、文字塔「庚申塔」、明治19(1886)
G角柱形、文字塔「青面金剛塔」、文化9(1812)
H角柱形、文字塔「庚申塔」、慶応4(1868)
I角柱形、文字塔「庚申塔」、明治11(1878)
J角柱形、文字塔「青面金剛」、安政5(1858)
K角柱形、文字塔「青面金剛」、文政7(1824)
Lその他、文字塔「庚申供養塔」、明治44(1911) |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:○(無人)、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)日本武尊・倭建命(やまとたけるのみこと)・日本童男(やまとおぐな):12代景行天皇の八十人いたという子の皇子で、7尺近い体躯で武勇に秀てていた古代伝説上の英雄。幼名を小碓命(おうすのみこと)という。16才で天皇の命を奉じて九州の熊襲(くまそ)を平定した。その後東国を鎮定した。帰途、近江伊吹山の神を征そうとして伊吹山の神の祟りにあって病を得、伊勢で没した。
素盞鳴尊のような純粋の神と違い、半神半人として描かれ、死後に神に祀られた。 |
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| 神社名 |
金八稲荷 |
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| 社殿全景。 |
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所在地
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我孫子市寿2丁目 |
| 御祭神 |
(不明) |
| 由緒 |
(不明) |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔・ |
なし |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
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| 神社名 |
千勝神社 |
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明神鳥居、参道、社殿全景。
狛犬は、左側が口を開けており、右側が噤んでいる。
境内の碑群。伊勢神宮参拝記念などが多い |
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| 所在地 |
我孫子市高野山新田188 |
| 御祭神 |
日本武尊(注1)、水速比売神(みずはやひめ) |
| 由緒 |
元禄2年(1698)当時5戸の氏子が、新田の水神を祀ったのが始まり。昭和54年に道路の付け替え工事に伴い移転改築された。
「千勝」は、「せんしょう」とも言うが、「ちかつ」と称せられる。 |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
@駒形、文字塔「猿田彦大神」、明治13(1880) |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)素戔嗚尊(日本書紀)・須佐之男命(古事記)(すさのおのみこと):伊弉諾尊の子で、天照大神は姉。性格が凶暴で、天の岩屋戸の事件を起し、高天原から追放された。出雲国で八俣之大蛇(八岐大蛇)を退治し天敢雲剣を手に入れ、天照大御神への服従の意を込め献上した。剣は、三種の神器の一器となっている。 |
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| 神社名 |
天満宮:柴崎 |
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| 明神鳥居をくぐると梅林の中にひっそりと建つ社殿。2月20日頃梅が咲いている。 |
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| 所在地 |
我孫子市芝崎 |
| 御祭神 |
天満天神(菅原道真、注1) |
| 由緒 |
(不明) |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
なし |
| 見所 |
p神社の周りの梅林 |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)天満天神・菅原道真・菅公(かんこう)・菅丞相(かんしょうじょう)・菅家(かんけ):天神さま・天満宮・菅原神社:代々学者の家系に生まれ、長じて宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任し政治家として卓越した能力を発揮した。醍醐天皇の世に55才で右大臣になったが政治的な暗闘、学閥の抗争などに巻き込まれ、延喜元年(901)に藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、配所で没した。
都を去るとき詠んだ、「
東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
」は有名。
太宰府に赴任して2年後の延喜3年(903)に没した。門弟により墓所として太宰府天満宮が建てられた。死後、種々の怪異が現れたため御霊として京都・北野天満宮に祀られた。そのご三聖の一人にかぞえられ、「類聚国史」の編纂、「三代実録」の撰に参与したりして書をよくしたため、学問の神として尊崇されるようになった。(845〜903)。
天神さま・天満宮・菅原神社は、菅原道真を祀る神社で、全国に14000社ある。 |
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| 神社名 |
八幡神社:青山 |
| 所在地 |
我孫子市青山163 |
| 御祭神 |
誉田別命皇大神(ほんだわけのみことすめおおかみ、注1) |
由緒
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草創年代は明らかでないが、利根川畔の水田を望む高台に鎮座する。集落の鎮守社として毎月1日と15日に氏子が参詣し境内の清掃が行われていた。
明治の「神社明細帳」に「村社八幡社」と境内社として「稲荷社、八坂神社、三宝荒神社」の3社が記されている。また、明治43年には皇大神、厳島神社、水神社が合祀されている。 |
| 例祭 |
(不明) |
| 庚申塔 |
@山形、彫像塔、元文2(1737)
A板碑形、文字塔、万治2(1659)
B角柱形、文字塔「青面金剛」、文化2(1805)
C駒形、文字塔「青面金剛」、文政9(1826)
D駒形、文字塔「青面金剛」、文政3(1820)
Eその他、文字塔「庚申塔」、嘉永7(1854)
F角柱形、文字塔「青面金剛」、天保4(1833)
G山形、文字塔「青面金剛尊」、宝暦4(1754) |
| 見所 |
p林の中の静かな神々しい雰囲気
p8基の庚申塔 |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)誉田別命(応神天皇)(ほんだわけのみこと):応神天皇で仲哀天皇と神功皇后の第4皇子。八幡大菩薩ともいわれ、日本の神々の中で最初に仏名を持った神。大陸文明を我が国に輸入し、日本文化の興隆に貢献した大和朝廷の傑出した文化人指導者.。 |
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| 大きな明神鳥居の向こうに鎮座する社殿。 |
明治19年(1887)製作の狛犬。長い風水に打たれ変形が激しい。 |
8基の庚申塔の中の1基。宝暦4年(1754)造立の「青面金剛尊」と刻んだ文字塔。 |
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| 神社名 |
八幡神社:岡発戸新田 |
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| 神明鳥居を入るとうしろに手賀沼をひかえた社殿がある。左後方に白く見えるのが手賀沼。 |
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| 所在地 |
我孫子市岡発戸新田162 |
| 御祭神 |
誉田別命皇大神(ほんだわけのみことすめおおかみ、注1) |
| 由緒 |
明治の「神社明細帳」には、「岡発戸新田字滝下、村社、社殿間数:間口弐間三尺、奥行三間三尺」とある。境内神社として、道祖神社、水神社、天神社、庚申塔、二十三夜塔、侍道社の六社が記されている。 |
| 例祭 |
(不明) |
庚申塔
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@駒形、文字塔「庚申塔」、大正?
A山形、文字塔「青面金剛」、寛政2(1790)
B山形、彫像塔、明和7(1770)
C駒形、文字塔、弘化3(1846) |
| 見所 |
特になし |
| お札などの販売 |
社務所:×、お札:×、お守り:×、おみくじ:× |
| 注記 |
注1)誉田別命(応神天皇)(ほんだわけのみこと):応神天皇で仲哀天皇と神功皇后の第4皇子。八幡大菩薩ともいわれ、日本の神々の中で最初に仏名を持った神。大陸文明を我が国に輸入し、日本文化の興隆に貢献した大和朝廷の傑出した文化人指導者.。 |
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