香取市合併記念行事
 佐原の大祭の佐原市が平成18年3月27日に近隣の小見川町・山田町・栗源町と合併し、「香取市」となり、佐原市の人口/所帯数は4.8万人/1.5万世帯(2003.8)から8.6万人/2.7世帯(2006.8)とほぼ倍の香取市になった。
 この合併を記念して「香取市合併記念式典」が2006.9.3に行われ、市長や関係者の挨拶などの式典と記念アトラクションが行われた。
 記念アトラクションは、式典が行われた佐原文化会館の式場での愛宕神社神楽などの上演、「佐原の山車曳き廻し」が行われた。
 「佐原の山車曳き廻し」は、まず、佐原の大祭の夏の八坂神社の祗園祭・諏訪神社の秋まつりに出るうちの9台が、文化会館駐車場に勢揃いし、そろばん曳き・のの字廻しなどの曲曳きの後、市街地を曳き廻された。
 広い場所での勢揃いは久しぶりに見たが、じつに豪華絢爛というか、荘厳というか、屋台祭の醍醐味といえ、涙がこぼれる思いであった。毎年の例大祭でもやってもらえればいいのだが。
式典は、市長や来賓の挨拶、新しい市章のデザイナーの表彰などに続いて、愛宕神社神楽(右絵)、琴・チェロ・フルートの重奏による邦楽JOYが佐原文化会館大ホールで行われた。 文化会館大ホールでのアトラクション
勢揃いした9台の山車
文化会館駐車場に揃った左から諏訪神社の秋祭りの北横宿・下宿・上宿の山車、八坂神社の祗園祭の田宿・荒久・本川岸・八日市場・浜宿・寺宿の山車。13時からのアトラクションでは、まず、田宿の山車の清水芸座連が代表で砂切を演奏した。
9台もの山車が一堂に勢揃いするのは壮観のひとことである。期待するのは無理であろうが、佐原の大祭の全25台が揃うととんでもない迫力であろう。
上宿の囃子の演奏での総踊り
上宿の山車(左から2台目の前に出ている山車)の寺宿囃子連の囃子で総踊りが行われた。さすが9台揃って広い場所での総踊りは壮観である。
なかなか見られない3台同時ののの字廻し
上宿の山車の“そろばん曳き”、 1台づつや浜宿・寺宿・本川岸の同時3台の山車による“のの字廻し”が行われた。3台による“のの字廻し”は例大祭では見ることができない貴重な光景という。
注)佐原・小見川・山田・栗源の歴史 (出典:香取市HP)
 香取市の北部は、大きな内海があり、「香取の海」「香取流海」などともいわれていたが、その後上流の泥砂が沈積しデルタ地域ができ、利根川は江戸時代になってから現在の姿になった。
 内海との境の縁辺部などには、阿玉台貝塚・良文貝塚(小見川)・下小野貝塚(佐原)・向油田貝塚(山田)などの貝塚遺跡や神道山古墳群・又見神社古墳(佐原)・城山古墳群(小見川)などの古墳遺跡などの多くの遺跡が残されている。
 古く香取市周辺は、佐原地区付近は香取郡、小見川地区や山田地区の一部が海上郡、山田町の一部や栗源地区が匝瑳郡となっていた。
 また、創建が一説に神武天皇の18年(紀元前643、詳細不明)ともされる香取神宮が下総国之一宮として鎮座している。
 中世は、千葉氏一族、東氏の一族、粟飯原氏などが勢力を持っていた。
 徳川家康が、天正18年(1590)に関八州に封じられ江戸城へ入ると、佐原の岩ケ崎に鳥居元忠が入り4万石の村々の領主となったが、短期間で転封し、その後は、江戸時代まで佐原市街地は、幕府代官支配地や旗本知行地となっていた。
 佐原や小見川は、利根川水運の発達にともない年貢米の津出し場や周辺地域の物資の集散地として栄え、醸造業などの産業も発展した。この時期、佐原村は「お江戸みたけりゃ佐原にござれ 佐原本町江戸まさり」といわれるほどの賑わいを見せていた。
 一方南部の台地や谷津地帯には多くの農村集落が形成されていたが、佐原から栗源にかけての台地上には、幕府馬牧の一つである油田牧になっていた。このため周辺村落には牧の管理などに係わる課役が負わされていた。
 明治8年、香取市域は千葉県に属するようになり、明治22年の町村制の施行により、佐原地区には佐原町などの9町村、小見川地区には小見川町など5町村、山田地区には府馬村など3村、そして栗源地区には栗源村となった。
 佐原や小見川の水運による物資輸送の拠点や商業地として発展する一方、山田・栗源地区は台地を生かした桑苗栽培と養蚕業が盛んとなった。明治40年代の府馬や山倉の繭生産額は、上位を占めていた。
 栗源町は大正13年には町制を敷き、昭和26〜30年には近隣との合併により佐原市、小見川町、山田町となった。
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