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●由緒:歴史のある神社だけに由緒もいろいろあるが、いくつかを紹介する。
・第1説:社伝によると聖武天皇の天平2年(730)の創建といわれており、1300年あまりの歴史のある都内で最も古い神社の一つです。はじめは武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町将門塚周辺)にあった。
約200年後、桓武天皇6代の皇胤なる平将門公が俵藤太に討たれ、その御首は京都に運ばれ東の市に晒された。やがて党類がこれを奪い帰り神社の近くに葬った所、天変地異の怪異が続き住民が窮し、時宗の真教上人が祟りを鎮めるために、延慶2年(1309)に平将門を神田神社の祭神として合祀され、神田明神と名付けこの地の守護神にされた。
天正18年(1590)江戸に幕府を開いた徳川家康は、深く尊崇して、神領を寄進し、元和2年(1616)に現在地に遷座し、江戸城の丑寅(うしとら)の鬼門の位置の守護神となった。
明治元年には勅祭社に准ぜられ、同7年には明治天皇が御親拝された。
・第2説:神田神社は,天平2年(730)に真神田臣が現在将門の首塚がある大手町付近に創建した神社とも言われ、安房国の漁民が安房神社の祭神を擁し,現在の大手町付近に移住し漁業や海運の仕事に従事したのが始まりで、神田明神の紋が「流れ巴」であるのはこのためであるという説もある。
・第3説:大宝2年(730)の鎮座と伝えられ、江戸氏の氏神と伝えられる江戸大明神(江戸神社)が、平川沿岸にあったのを江戸氏の没落とともに、神田神社に合祀されるようになったと考えられている。もともと将門首塚の辺りには神田山日輪寺があった。室町中期に時宗の念仏道場として芝崎道場が開かれるとともに、この将門霊神が、江戸大明神の祭神であり御霊信仰に深い関わりを持つ牛頭天王を仲立ちとして、合祀されるようになったといわれている。
家康が江戸城に入り城郭の拡大したことに伴い、慶長8年(1603)に駿河台へ、元和2年(1616)には2代将軍秀忠により、武蔵国の総社として神田の北に移された。江戸幕府が神田明神を江戸の総鎮守神としたのは、徳川家が子々孫々まで天下を納めていくために、将来尊皇思想が起きないようにとの願いからで、朝敵と言われながら関東の民衆に愛された将門は祭神として打ってつけだったという説がある。
明治になり逆賊であった将門は、祭神の合祀より外されていたが、約20年前にNHK大河ドラマで将門が主人公の「風と雲と虹と」が放送され、将門の人気は再上昇し昭和58年に再び神田明神の氏神として将門は復活した。
●神田(かんだ)とは伊勢神宮の神田(みとしろ)のこと。
●社殿の建立:2代将軍秀忠が桃山風の豪華な社殿を建立し、歴代将軍の尊崇厚く、江戸総鎮守として面目が一新されましたが、明暦3年(1657)の大火で焼失してしまい、すぐに復興されたが、元禄16年(1703)、明和9年(1772)に災害に遭った。また大正12年(1923)の関東大震災で社殿他建物がすべて壊滅し、昭和9年に神社では画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗(そううるしぬり)で社殿が再興された。平成七年より「平成のご造替事業」が開始され境内諸建物の塗り替と修復が行われた。
●神田祭:徳川家康の江戸時代に始まり、天下祭とも呼ばれ、華麗な山車が三十六台も続き、将軍上覧の天下第一の祭礼として知られた。
「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と江戸っ子は評したといわれ、神田祭と日枝神社の山王祭りは、祭列が江戸城内に入ることを許される「御用祭り」として盛んになった。しかし、金がかかりすぎたため、1年交替で実施されるようになり、実施されない年は「陰祭」と言われ、山車の運行などはない小規模な祭になり現在に続いている。
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